
Lv80 或る秋の話
盛夏のぎらついた太陽がその暴力性を徐々に弱め、青空の中でほんの少しだけわたしたちから遠ざかっているのがふとした機会に感じられる頃に、ロミンサンアンチョビの旬はやってくる。
調理師ギルドのマスター、リングサス師が魚商と網倉へ仕入れを兼ねた挨拶回りをするのに随伴した帰り道。師がわたしにひとつの問いを投げかけてきたのは、今年の初物のアンチョビが大量に詰まった冷却箱の重みを背負子に感じている時のことだった。
「お前もそろそろ、一端の調理師を名乗って恥ずかしくねえ力量を備えてきた頃合いだ。だから俺から一つ聞いてやろう」
いくつかの厄介事の解決を手伝ったことだけではなく、その間にも地道に練習を積んでいた成果はどうやらきちんと皿の上に出せていたらしい。直々の仕入れに随伴を許されたというのは、つまり信用の段階がひとつ上がったということだろう。挨拶回りの先がわたしの顔見知りだったのは、どうやら師としても想定外だったようだが。
「料理は愛情、っつー言葉を一度ぐらいは聞いたことがあるだろう。お前、あれについてどう思う?」
「どう、って」
随分と漠然とした問いかけだ。しかし音に聞こえたマスター・リングサスが、わざわざ見込み有りと前置きして問うからには、うかつな答えで失望させるわけにはいかない。少し時間を頂けますか、と返すと、俺の気は長くねえぞという答え。広いリムサ・ロミンサとはいえ、網倉とビスマルクはそれほど遠くもない。制限時間はごく僅か。急げ急げ。
料理は愛情、たしかによくある言葉だ。しかし気持ちを込めればそれだけで味がよくなるのであれば、わたしたちの修行に意味はなくなってしまう。精神論でない部分に意味を見出すとすれば――
「相手の好みに合わせてあげる、とかですか?」
「ふむ、方向性は悪くねえな。だが、ちと足りん」
「と言いますと」
「例えばだな、俺達は今まさにこうやって肉体労働に勤しんでいるわけだが」
そう言う師の背には、わたしが背負っているのと同じ冷却箱が三つ重ねられ、厳重にベルトで留められている。水精の核をベースに氷の属性石を底に敷き詰めて魚の鮮度を保つ工夫がされたそれは、一つでも結構な重量物だ。
「こういう仕事明けでへとへとに疲れた奴にゃあ、基本のレシピからちぃっとだけ塩気を効かせた一品を出してやる。逆に森都の連中はあまり強い味のもんを食べ慣れてねえことが多いから、一食の中で徐々に慣らしていくようなコースの組み立てができりゃあいいな」
調理師ギルドでは、まずレシピに忠実に作れ、という教えを受ける。それはあまねく先人の試行錯誤の結晶であり、同時に素晴らしき教本であるからだ。しかし、今の師からは真逆の言葉が飛び出していた。
「お前が以前やったように事前に好物をリサーチしておくなんて手もあるし、故郷から長く離れてるような奴には隠し味にその地域の食材や調味料を足してやったりもする――勿論、ここで元のレシピを壊しちゃならねえ。その料理たらしめる核は何で、どこまでを変えて、どこを変えねえか。それを間違えねえことに、調理師の腕が出る」
「……マスターは、それをいつも?」
「応とも。実のところ、こいつは邪道も邪道――読み違えて空振りしちまえば客の満足度は下がるし、同じ相手に二度効かないことだってざらにある諸刃の剣だ。それでも並の一流を超えたきゃ、相手の期待の上を行く皿も出せるようにならねえとな」
師が上得意客の来店時、みずから出迎えて近況を聞いたり雑談に興じているところを何度も見たことがある。なるほど、あれは単に歓迎の意を示す以外に、しっかりと料理に繋がる意味があったわけだ。
「体つき、顔色、服装、言葉の訛り、立ち振舞い――判断材料は数え切れねえほどある。それを一つ一つ余す所なく拾い集めて、相手のことを考えて考えて考え抜いて、その時ベストな皿に全霊を傾けるんだ。そりゃあもう、愛と言って差し支えなかろうよ」
師の料理に掛ける熱量に圧倒されてしまったが、そういえば最初はそんな話だった。
「素材はいつでも俎板の上にある。それを活かすも殺すも俺達調理師の腕一つだ。よく見て聞いて考えて、常に研鑽を怠るなよ、アルファ」
「――はい」
どこかで聞いたような言葉で問答はおしまいとなる。ビスマルクはもう、ほど近い。
誰かを導く立場にある存在は、伝え方も、伝えるべき本質も似るのかもしれない。会話の内容もさることながら、その締めくくり方が強く印象に残ったことを、いまだ色濃く憶えている。
●
翻って、バル島。本部塔に臨むヒュダトス帯。
わたしは現在の調査隊が拠点としている建物、広い空間に幅のある長机がいくつも並ぶ食堂にいる。
お茶を手に手に卓を囲んでいるのは、わたしたちが意気軒昂に踏破範囲を広げていた頃からの顔馴染みである炊事班の皆だ。野外の焚火を囲んで調理をしていた頃と比べれば、かつてバルデシオン委員会が使っていた建物は多少の傷みこそあれど遥かにまともな環境が構築されていて、一時的にであれそこに根を張る者として暮らしの質を上げようという気持ちの良い強欲さを感じる。
そんな皆に聞き取りを進めてみたところ、誰に聞いてもエジカが食に対して何か苦言を呈したことも、逆に何かを特別好むこともないという答えが返ってきた。
「んー、空振りかあ。やっぱりシャーレアンの研究者ってみんなそういう感じなのかな。食事にこだわる暇があるなら研究するって、まあ結構イメージ的にも納得しちゃうし」
「いやぁ、みんながそうってわけでもないっすよ? アルファさんがよく持ってきてくれる外のお土産なんか、もうみんなの間で争奪戦が起きるぐらい人気ですし」
うんうん、と頷く一同。
「俺もそれは美味しく頂いてるんすけど、やっぱ悔しいは悔しいっすね。俺らのメシで満足はさせられてないってことなんで」
「みんな事情はわかってくれてるから文句を言われるってことは全然ないんですけど、あれを見ちゃうと思うところはあるよね」
地脈を漂い徐々に溶けゆくばかりであった状況から物質界へ突如浮上した影響はいまだ色濃く、バル島の環境エーテルは荒れ狂ったまま。どうすればそれを鎮めることができるかも未だ研究途上の状態だ。そんな中では安定した食料自給などとても叶わず、バル島に滞在する者の生活はロウェナ商会と東アルデナード商会主導のまだまだ小規模な定期便によってもたらされる物資頼り。それなりの大人数の胃袋を握っている彼らは、自らの仕事に誇りを持ちつつも、どこか申し訳なさそうにしていた。
「みんなのやってることはほんとに特別な技能だよね……わたしも一応人に料理を振る舞う仕事の経験はあるけど、運営ってなると無理だもん」
慰め半分、心からの称賛半分の言葉をかける。そのうちハンコックあたりに働きかけて、物資輸送についてなんらかの改善提案をしてみてもいいかもしれない。商人としての彼は、スタッフの士気管理という実益の面から切り込めば多少は話を聞くだけの柔軟性を備えているはずだ。足しになるかはともかく、なんなら多少はわたしから出資したっていい。ありがたいことに、多少の道楽にかまけていられる程度の金銭的余裕はある。
「あざっす。エジカさんについては次からもうちょっとよく見てみますね」
……とりあえず、次に来る時のお土産は弾もう。楽しみにされているとわかったことだし。
●
「いらっしゃい! お客さん、今日は何にする?」
「……何故、貴様が厨房に立っている」
時は変わって、処変わらず、再びのバル塔調査拠点食堂。満面の笑みとともに投げかけてみた小ボケは、予想に違わずまるで無いもののように流された。まあ、もとより食事の選択肢など用意できてはいないのだけれど。
「うーん、慰問? じゃないな、慰労? まあ、とにかくそんな感じ。東アルデナード商会プレゼンツ」
「奴も一枚噛んでいるのか……」
――事業として予算を計上しているところに多少個人から援助されたところで、計画の大筋はとても動かせない誤差でしかありまセーン……が、かの英雄殿が直々に、となれば話は別。それもビスマルクに認められた職人ともなれば尚更デース!――
エジカの思い浮かべたであろう「奴」の物言いを思い返す。つくづく強かな商人だ。それほどの傑物でなければ、とても異国の地で番頭などやっていられないのだろう。炊事班の皆以外の顔馴染みも、あるいはこちらが一方的に顔と名前を知られていることも多いこの島において実際に受けがよかったところを見るに、商いだけではなく興行主としても一流なのかもしれない。
「まあ、おとなしく食べていってよ。これでも腕に覚えはあるからさ」
「ハンコックが良しとしたのならそうなんだろうよ。手早く食えるもので頼むぞ」
「そこはじっくり味わって欲しいんだけどなあ」
相手にそうとわかるように苦笑を作って、二人分を配膳する。大人数向けの仕込みという都合、ビスマルクのように注文を受けてから気合を入れた料理を一から作るわけにもいかない。主菜は大鍋で大量に作れる煮込み料理に、催し事の特別感を出すために生鮮野菜を贅沢に使ったバーニャフレッダ、オーブンをフル回転させて焼いたバゲットを添えれば、図らずもエジカの要求通り、すぐに一食分が用意できた。品数こそ寂しいが、正当なコースメニューのエッセンス――肉と魚と、スープとサラダ――を拾いつつ、限られた人員と設備で作れるものは何だろうかと皆で頭を捻って考えたものだ。
「はい、召し上がれ!」
「ああ…………ありがとう」
たっぷり数秒迷って、それでも作った相手に謝意を伝えないのは不義理だと判断したのであろう礼。そんな不器用な律儀さも、しばらく交流を続けていく中で明らかになったものだった。
●
「貴様が厨房に居たことまでは納得しよう。だがな、相席は流石におかしくないか」
先ほどにも増して眉根を寄せた顔をして見せるエジカの顔は、わたしの正面の席にある。こっそりと用意しておいた自分の分のトレイを両手に彼の背を追いかけ、同席を申し入れたのだ。ちなみに、わたしはその答えを聞かないうちにさっさと席についてしまっている。
ごく早いうちからわかっていたことだが、彼はなんとなく、押しに弱い。どうしても譲れない事柄に関しては極めて頑なだが、それ以外のことはたいてい折れるのが早い。そこに付け込む――あるいは、甘える――ような立ち回りをすることが、最近は多い。
本当に、本気で不快にさせてしまっていないかという点だけは全身全霊で気を遣って、そうなった時にはいつでも本気で謝るつもりではいるが、今のところそのような気配は感じられず、最近は憎まれ口を叩きながらリラックスした様子すら見せてくれるようになっている。だからエジカのこの様子も、定型化したじゃれあいのようなものだ。
それに、ある程度強引に振り回すぐらいでなければいけないと思う理由も、一応ある。
「エジカが今日最後だったからね、わたしもさっきので上がり。……ちょっと根詰め過ぎなんじゃないの?」
そう。長机が並び、大人数を収容できる食堂に、人の姿はまばら。
実のところ、彼が毎日毎夜、概ね最も遅くまで何かしらの仕事に取り掛かり、時には食事を摂りながらですら書類と睨めっこの日々を送っていることは事前に聞いていた。それを織り込んで最初から彼の来訪に合わせて終わりにできる段取りを立てていたのだが、それは言わぬが花というやつだろう。
個人的にはきちんと後片付けを済ますまでが料理だというのが信条だが、そこは炊事班の皆が請け負ってくれた。
「まあ、せっかくだからお気に召すかどうかも見たかったしね。本当に嫌なら別の席に行くけど」
「……はあ。好きにしろ、もう」
諦めの嘆息をひとつ、彼は匙を口に運び――注視していなければ気付けないほどのほんの一瞬だけ動きを停め、そして黙々と咀嚼を始めた。その表情の変化を見るに、嫌なものを我慢して食べているというよりは、自然と漏れ出た驚きを目の前のわたしに対して取り繕ったのだろう。
どうやら口に合わないわけではないのを察して、安心してわたしも自分の匙に手を付けた。しばし、一定のペースで食器どうしが立てる音だけが二人の間に響く。
わたしの背丈ほどもある大鍋で長時間煮込まれて舌で潰せるほどに柔らかくなったケナガウシの脛肉のシチューは、クガネの食材屋で仕入れた味噌の甘みとコクが隠し味に効いていて、我ながら良い出来だった。
それをお供に小さく千切ったバゲットを齧りつつ、彼の方に水を向けてみる。
「これはただの興味で聞くんだけど」
「ん? ……何だ」
タイミングが悪く、彼がむぐむぐと具材を飲み込むのを待つことになってしまった。
「ちょっとした機会があってさ、賢人パンをこの間食べたんだけど――やっぱりエジカも、アレで育ったの?」
「……物好きな奴だな。あんなもの、喜んで食べるような代物でもなかろうに」
呆れたような、怪訝な顔をするエジカ。
「へえ……アレが酷い味だって思う感性はあるんだ」
「貴様、俺達を何だと思って――いや、こればかりは反論しても無駄か。食事はエネルギーと栄養を摂れればそれでいいという奴が実際に多いからこそ、いまだに廃れずに作られ続けているわけだからな」
そういえば、ここでは久しく食っていないか――などと呟きつつ眇められた彼の目は、トレイの上のバゲットに向いていた。きちんと篩った小麦粉と、製作方法はウルダハ錬金術師ギルド門外不出の酵母粉、そして塩と水という極めてシンプルな材料で作られた白パンは、制約が厳しい中でも最大限美味しい物を食べさせようとする炊事班の皆の努力の結晶でもある。
「俺がアレで育ったか、だったか? 確かに慣れ親しんだ味で、あれば食うし文句も無いが、他に選択肢がある時にまでわざわざ選びはしないぐらいだな。これで満足か?」
「うん。参考になった」
彼が真っ当な味覚を備えていてくれたのは大きな収穫で、少し安堵する。いかれた舌に対してどうこう働きかけようというアプローチでは、いかにも甲斐がない。
「その物言いだと、全部が全部アレだったってわけでもないんでしょ? 他に何か人気のある食べ物とか、郷土料理とか、印象深いものはないの?」
ここにはシャーレアンの人たちも結構いるし、と、彼が答えやすいようにあくまで仕事の一環である風を装って続ける。流石に、言い訳がましいだろうか。
しかし存外に素直に、彼は眉根を寄せてしばし黙考し、そして少し居心地が悪そうに言った。
「……賢人パンは利便性までもを求めた結果ああなってしまった代物ではあるがな、正直なところシャーレアンの食のレベルは概してあんなものだし、大抵の奴はそういうものだと疑問も持たずに生きている。豊かな食文化なんてものの話を聞きたければ、尋ねる相手をルヴェユールの神童にでも変えることだな」
あの家なら道楽のような食事も日常的に出ていただろうよ、と皮肉げな文言を続けた彼はしかし、はたと考え直した。
「ああ……しかし何かの折にガラフ様に振る舞われた食事はやたらと美味かったな……どこかの店……バル島ではなくオールド・シャーレアンの……何だったか……」
彼がぶつぶつと記憶の海に潜っていくのを、わたしはただ待つ。ほどなくして、その答えは示された。
「ああ、思い出したぞ。ラストスタンドという店だ。俺はその時きりだったが、『暁』の賢人なりクルルなりに聞けばもう少し詳しくわかるだろう」
ラストスタンド――最後の砦? それはまた、随分と。
「飲食店にしては、大仰な名前だね」
「なんでも、貧しくなるばかりのシャーレアンの食文化の最終防衛線を気取っているのが店名の由来だそうだ」
わたしは伝聞と過去視でしか知らないガラフさん絡みの思い出だからか、少し上機嫌になったエジカはくつくつと笑って言う。
「その逸話と賢人パンの味でシャーレアンがどんな所なのか嫌な感じに想像がついちゃったけど……まあ、地道に頑張りますか。これから好物を増やさせるぐらいの気持ちでやらなきゃね」
「またやるつもりなのか」
「流石にそんなに頻繁にとはいかないけどね」
「どうせ今日のように俺の知らん内に根回しを済ませるんだろう、全く」
そう言って、溜息ひとつ。
島内外で生じる様々な決裁を何もかもエジカに回そうものなら、今でさえオーバーワーク気味な彼の許容量を超えてしまうのは火を見るより明らかである。そこで各部門の責任者や彼の秘書にはそれなりに大きな裁量権があり、彼が直接関与していない物事があることはなんら不自然ではない――が。
妙に茶目っ気のある、歳上の秘書さんの様子を思い出す。あの人ならサプライズとでも称して積極的に隠していてもおかしくなかった。それがわかる程度には、わたしも皆との交流は長いのだ。
短冊切りにした黄色いパプリカに塩気の効いたディップソースを付けて齧りつつそんなことを考えていると、彼がぽつりと口を開いた。
「……皆、喜んでいたか?」
その言葉は小声ながら真剣で、だからこそわたしも居住まいを正して答える。
「綺麗に食べてくれてたからね。満足してくれてると思うよ」
ソースやシチューの器をバゲットで拭うようにして、余す所なく食べた跡。それはある種どんな言葉よりも雄弁な、美味しかったという意思表示だ。皆から笑顔で掛けられた様々な言葉と合わせて、これは自惚れではないと断言できる。
わたしの言葉を聞いた彼は、ふ、と笑うように息を小さく漏らして言った。
「ならば、好きにしろ」
バル島には、ともに調査や復興に取り組む様々な職分のスタッフ達がいる。口が悪いからすぐには読み取りにくいけれど、彼は彼なりに、皆に対する確かな親愛と、仲間意識を持っている。
――いったいどうして……みんな……――
はじめてアネモス帯へ上陸した時、それまで刺々しい態度を貫いていた彼の口から思わず漏れた悲痛な呟きは、今も耳に残っている。
そうだね。あなたは最初からそうだった。あとはもう少しだけ、その優しい心を一人で抱え込まずに、皆が知ってくれれば、もっとうまくやれるはずなんだけどな。
「まあ、さっきの意気込みについては、」
いつのまにか、会心の出来のシチューは最後の一匙になっていた。
「早晩達成できるだろうよ。……実に美味かった、ご馳走様」
思いがけず投げかけられた率直な称賛。彼は言うが早いがそそくさと立ち上がり、踵を返して食器を返却しに歩き出した。その顔は、もう見えない。
……わたしが心配することなんて、無いのかもしれないな。
自然と上がる口角を感じながら、そんなことを考えた。ひとまずこの場は、こう返しておくべきだろう。
「お粗末様でした。また次もご贔屓に!」
《了》