Lv90 或る冬の話


バル島。旧称エウレカ、ピューロス帯。

この場所を一言で表すならば、危険極まる常冬の高山といったところだろうか。

島内エーテライトへ転移してきたわたしを出迎えるのは、一面の銀世界と、視界の端々に奇妙なクリスタルが浮遊する、雲のない空。一見して美しい環境はしかし、訪れる者に対しては激しく牙を剥く。

ただでさえ滑りやすい雪の表層が定期的な灼熱波によって溶かされ、それが再び冷気によって凍るというサイクルを繰り返した結果、姿勢保持すら困難なアイスバーンが出来上がってしまうのだ。その上足場は細かったり傾いていたりで、ひとたび滑落すればその末路は想像に難くない。そしてやっとの思いで深部へと辿り着くと、今度は灼熱の溶岩洞窟に挑まねばならないというのだからたまったものではない。

本来は登山家が用いるような専用の装具を備えるのが筋だけれど、あいにくとここへ来たのは突発的な事情だったので、ひとまずエーテルを靴底に纏わせて、即席で滑り止めの爪クリートに成形することで対処する。護り手タンクとして戦う際、敵の攻撃で吹き飛ばされたりすることのないよう、大地にエーテル刃のアンカーを打ち込む技術の応用だ。

問題なく歩ける状態になったので、改めて拠点となっている建物の方へ歩く。ざくざく、と足下から伝わる感触に集中するのも、もはや懐かしい。バル島調査の最前線がヒュダトス帯へと移った以上、ここに残っている人員は僅かだ。拠点の周辺の危険は排除されているとはいえ、島全域を見渡してなお最も過酷なエリアといって過言ではない。

……エジカ、無事だといいんだけど。

バルデシオン委員会もまた、知の巨人シャーレアンの一部。その飽くなき探究心は、人を拒む過酷な自然ではまるで挫けることなく、この地にも在りし日の遺構をいくつも残している。建造されたのがこの島のエーテルが荒れる前のことだったとしても、流石に標高まで変わりはしていないだろうから、それらは純粋に知識欲の執念の産物ということになる。あるいは、地下に大規模な疑似自然環境ラヴィリンソスを構築してのけたことと比べてみれば、このぐらいは朝飯前なのかもしれない。

エジカたち調査隊は、島内全域に散っているそのような遺構から定期的に残留物のサルベージを試みている。終末騒ぎがあったばかりだというのにまるで通常営業なこの島で、今日もそんな遠征をしていると聞いた。

――あちゃー、今日エジカくんはピューロスの方なんすよね。何日もかかるような用でもないっすから、よかったら待ちます? アルファさんならどこでもフリーパスっすよ――

ぱちり、と可愛らしいウインクが添えられたエジカの秘書さんの言葉を聞いてつい悪戯心が疼いてしまったわたしは、どうせフリーパスならと衝動的に、装備も整えないままに島内転送網を辿ってやって来たのだった。

さて、彼はどんな顔をするだろうか。

「馬……ッ鹿者! 何故こんな所に来ているのだ貴様は!?」

ものすごく怒られた。なんなら、いまだかつて見たことのないほどの剣幕だった。

わたしがかつてこのエリアを探索していた頃の馴染みと旧交を温めていたところに帰ってきたエジカは、まるで死人ゴーストでも見るかのような顔でこちらを呆然と見つめたかと思えば、急に態度を豹変させてわたしを怒鳴りつけてきたのだった。

「俺が良いと言うまで貴様は何もするな、絶対にだ」

などという有無を言わさぬ物言いに戸惑って、先ほどまで談笑に興じていた相手の方を見やると、あちらもわたしの顔を鏡に映したような困惑を顕わにしていて、こんな様子の彼を見たことがないということだけがわかった。

虫の居所が悪かったのか、それとも知らぬうちに彼の許せない何かに触れてしまったのか、それすらもわからない。わからないが、きちんとその理由は知らなければならないだろう。この場においての彼の怒りはより高まってしまうかもしれないが、知らないままでは、次はやらないように気をつけることすらできないのだから。

そんなふうに考えているうちに、わたしの話し相手を務めてくれていた人たちも招集されてしまって、わたしは一人になる。この場ピューロスにいる人員は、大勢を常駐させておく必要性が薄い、環境が厳しいという二つの理由から少数精鋭だ。遊ばせておく手など、本来はひとつも無いのだろう。

何もするなと言われてしまったので、屋内の熱源にもなっている大きな焚火を手持ち無沙汰にぼんやりと眺める。薪が時折ぱちりと強く弾ける音さえもわたしを責めているように感じてしまって、ひどく居心地が悪かった。

「…………」

「…………」

勝手知ったるヒュダトス帯、調査隊拠点の廊下にララフェル二人分の軽い足音が響く。驚くほど素早く指示出しを終えたエジカは、わたしを伴って再びここへ戻ってきた。

――付いてこい、拠点に戻るぞ――

――わかった――

そんな極めて短いやり取りがあった後は、わたしたちの間に会話はない。前を歩く彼の表情も、わからない。

そうしているうちに、見慣れた部屋に到着する。クルルさんの名代としてこの島の指揮を執る彼の執務室だ。

扉を開くのは部屋の主であるエジカで、それを閉めるのは後から入ったわたし。再び室内が外と隔絶されると、彼は溜息を一つつき、少しだけ肩を落として緊張を和らげたように見えた。

「……あの、」

話す内容も決まっていないまま、とにかく声をかけてしまった。ここまでに時間は与えられていたはずなのに、どうしてか思考は上滑りするばかりで、まるでまとまらないままだ。

「いいから、まずは座って落ち着け――話なら後で聞いてやる」

部屋の奥、執務机に荷を置く彼の声色は思いの外こちらを労るように柔らかく、またわたしは何も言えなくなってしまう。

こんな風だったかなあ、わたし。

星を救う大きな戦いを乗り越えて、とても、とても久々に、心を悩ませる案件もなくて。そうして浮足立っていたからこそ、いつもは顔を出さない悪戯心が湧き上がったり、あまつさえそれに身を委ねてみてしまったのかもしれない。

促されたままに、大きなソファに座って息を整える。細く長く吐いて、体の中の空気を全部出しきって、また細く長く吸って、吐いて。

そうしている間に、彼は暖炉に薪をいくつか設置すると、背中の杖を構えて小さな炎魔法で点火した。魔具に蓄積されたエーテルを放出して詠唱の代わりとする迅速魔スウィフトキャストの技術だ。

「横着……」

「やかましい。結果が同じなら簡便な方が良いに決まっているだろうが」

つい口をついて出た言葉に、いかにも効率重視の研究者らしい論法で反駁はんばくする彼は、すっかりいつもの調子を取り戻しているように見える。

……じゃあ、さっきの様子は一体何だったのだろうか。今普通にしているからこそ、余計に不可解さが増していく。でもきっと、いつも通りに戻った態度に甘えて、なあなあに、なかったことにしてはいけないという予感だけは高まっていく。

いまだ態度を決めかねているわたしをよそに、彼は今度は部屋の隅、背の低いテーブルが設置されている一角へと向かった。以前に来た時は確か何も無いスペースだったはずだが、今は見慣れない器具が種々雑多に置かれている。そこで何らかの準備をするようだ。

不活性状態の湧水のクリスタルにエーテルを通して硝子瓶に水を汲み、逆の手では小さな卓上焜炉コンロに敷いた炎の属性石ファイアシャードを点火、お湯を沸かし始めたかと思えば、また別の工芸品めいた器具と円筒形の金属缶を取り出している。遠目に見るそれは、

「……お茶?」

「ああ、先日ハンコックが手土産に置いていった品でな」

先日。ハンコックの手土産。それはつまり、皆がエクスアダマント確保のために各地を奔走していたときの話だろう。いま手許から目を離さないまま答えた彼も、バル島の皆も、限られた時間の中、なんとか魔具を探し当ててくれたと聞いている。

「そっか、あの時の……」

「奴には随分と無茶を言われたがな。まあ、普段はまるで持ってこない手土産こんなものなど用意していたあたり、無茶を言っているという自覚はあったんだろうさ」

「……ね。近くで見てても、いいかな」

「好きにしろ」

見ていて面白くもないだろうがな、と言う彼だが、思えば手ずからお茶を淹れることなど今まで一度もなかった。もの自体にも興味があるが、何より、せっかくだからその姿をよく見たくなったのだ。

許しを得て近づいてみれば、彼は美しい白磁の急須ティーポットへと沸いた白湯を注ぎ、しばらくじっと待ったかと思えば何の手も加えることなく東方式の取っ手のない湯呑茶碗ティーカップへと湯を回している。すっかり空いた急須に缶から茶葉を計り入れると、先ほど注いだ茶碗のお湯をまた別の器を経由させて、そのまま急須へ戻した。

一旦沸かしたお湯をあちらこちらへ忙しく移している理由はよくわからないが、ひんがし名産の緑茶グリーンティーは正しい淹れ方をしなければまるで本来の味が活かせないと聞く。となれば、その手順にも意味があるのだろう。意外なことに、彼がそうする動きは淀みなく、こなれたものを感じさせる。

彼がもともとその手の嗜好品に造詣が深かったのか、贈り物をきっかけに新たな趣味に目覚めたのか、それとも――

その先は流石に自惚れが過ぎたので、考えるのをやめる。ちらりと盗み見た横顔からは、目の前の物事に取り組む真剣さの他には、何も読み取れなかった。

作業自体は結局ものの数分で終わり、改めてわたしたちは向かい合う二台のソファに座っていた。間のテーブルには、それぞれの分の茶碗だけが置いてある。茶托ソーサーに載せられた白磁の茶器は無地ながらもやはり美しく、お茶の爽やかな緑色を映えさせていた。

「いただきます」

「ああ」

生憎ひんがしの作法には明るくないので、せめて精一杯丁寧に。両手で大事に茶碗を持ち、ひといき香りを楽しんでから口に含む。

「うわ、何これ」

「……口に合わんか」

「あ、ごめんね。そうじゃなくて……あんまり美味しかったから、びっくりしちゃって」

控え目に口に含んだ途端、想像だにしていなかったが口内を満たして、褒めているとは言い難いような言葉が思わず飛び出してしまった。

途中で何か特別なものを加えていないのは、淹れる様子をつぶさに見ていたから重々承知している。ということは、この甘味と旨味の爆弾のような代物は純粋にお茶だけのポテンシャルなわけで、ハンコックがいかに本気であったかを、間接的に、今更のように感じ取れた。

絶対悪い冗談みたいな値段するよ、このお茶。

「ならいい」

わたしの不用意な発言をさほど気にしてはいない様子で、彼もわたしから視線を外してお茶を口に含む。心なしか、その口の端が上を向いたように見えた。

そのまましばらく、無言のまま絶品を味わう時間を送る。さほど大きくない茶碗を半ばほどしたあたりで、彼は茶碗を置いて口を開いた。

「……済まんな、気を遣わせた」

どこかばつが悪そうに目を伏せ、視線は何もない虚空、斜め下へ向いている。

勿論それは、せっかく淹れてくれたこのお茶に対するわたしの言動だけのことではなく、しばらく恐る恐る、腫れ物に触るような態度を取ってしまっていたことに対してだろう。

どうにか会話の糸口を探し続けていたわたしに対する助け舟なのだということは感じ取れたのに、先を越された、とつい思ってしまった。それでも渡りに船ではある。意固地になっても仕方がないので、わたしも茶碗を置いて、慎重に言葉を選びながら答える。

「こっちこそ、ごめん。怒らせたことも……それに、今もまだ、どうして怒らせたのかわかってないまま謝ってることも」

改めて言葉にしてみると、なんて不誠実な態度だろう。それでも正直に伝えなければいけない。わたしからだけでも、彼の目を見据えて、はっきりと。

「わたしは、これからもエジカと良い関係でいたいから――だから、どうして怒ったのか、教えて。直せることなら、頑張るよ」

わたしの言葉を受けて、彼は意外そうにこちらを見て――その視線の鋭さを、増した。

「そうだな、貴様は……つい先日まで面会謝絶の重体だった奴が、いきなり、よりによってピューロス帯で呑気に談笑に興じているのを見せられた時の気分が、わかるか?」

ひとつひとつ、言い含めるような口調。要するに要治療な傷病人が危険地帯をふらふらとしているように見えたらしく、なるほどそれは確かに、わたしでも叱りつけるかもしれなかった。

我が身のことだ、しばらく活発には動けていなかったブランクを差し引いても、一応退院を許される程度には調子を戻しているのは自明であるけれど、遠隔地バル島で過ごす彼にとっては知るよしもない。

というか、わたしが危険な状態であったことが伝わっているとすら思っていなかったのだ。現に彼以外のスタッフの皆とはいつも通りのやりとりをしていたのだから、彼にも知られていないと考えるのはごく自然な推測である。わたしの状況を知る立場にあり、わたしとエジカの間に交流があることも承知していて、その上でエジカと直接連絡を取り合う術のある彼の従弟オジカか、あるいはハンコックあたりの情報源があることが頭からさっぱりと抜け落ちていたというのは、確かにまだまだ本調子ではないということかもしれないが。

「貴様が……強く、頑健だということは重々知っている。だが、行き過ぎて自らを疎かにした時に周囲の者がどう思うかは、もう少し考えを巡らせるべきだろう」

「……うん」

――何言ってるんだよ、あんたがいちばん――

――お前が戻らなかったら、後悔どころの話じゃなかったぞ――

――よくない! 全然、ちっとも、ひとつもよくない!――

意識朦朧としていた時に、わたしにかけられていた言葉が蘇る。

無論わたしとて、負けるつもりの捨て身で挑んだわけではない。しかし護魂の霊鱗という素晴らしい努力の結晶のおかげで、超える力――光の加護というものの特異性、唯一性がある程度薄くなった今、もしも敗北した場合に『暁』で最も代替可能な存在は、わたしであるという打算がなかったといえば、嘘になる。

その自己評価を、今になって、様々な人から咎められている。

わたしは、わたしの小さな手が届く距離にいる皆のことが大好きで、大切で。でも、それに見返りを求めるのは筋違いだとも思っていた――否、今だって、思っている。

わたしが皆を大切に思っていることなんて、にとっては知ったことではない。わたしがあくまで自分勝手に、自分本位に皆を好きでいる、常にそう自らに言い聞かせていたからこそ大抵のことに対して寛大でいられるし、皆にはわたしのことなど一切気にせず、同じように自分勝手に振る舞って欲しいと思っている。

だけど、少しぐらいは。もっと我儘に、期待して、求めてもいいのかな。

『暁』にも、彼にも。

「……とはいえ、だ。俺の怒りに関して、本質的に貴様に非は無いんだ。病室を抜け出して、無理を押してここへ来ているなどと言うなら流石に話は変わるが、違うのだろう?」

「まあ、そうだね」

……担当医やアリゼーがもう少し綿密な検査を進めてきたり、退院に難色を示していたところを半ば強引に承諾させたというのは黙っておこう。うん。

「ならば、やはり貴様には済まないと言う他なかろうよ。あとは精々、気を揉ませるような隙を見せないことだな」

そう語る彼の瞳からいつの間にか鋭さは失われ、再び少し居心地が悪そうにしている。わたしに非はないと語る彼だが、省みるべきところは大いにあった。ただ、ここでわたしが上から謝罪を重ねたとしても、彼は受け取らないだろう。

案外、わたしたちは似た者どうしなのかもしれない。彼の語る言葉からは、わたしを心配したことをことへの後悔が色濃く滲み出ていた。なればこそ、彼はきっと、他人をどのように大切にするかのやり方スタンスが、わたしと似ている。

であれば、わたしはただ素直な気持ちを伝えよう。シンプルな言葉に万感を込めて、彼に届くまで、届かなくても、何度でも繰り返そう。

「わかった――心配してくれてありがとう。とても、嬉しい」

周囲の者がどう思うか。明言はしなかったが、しかしその物言いには彼自身のことも含んでいるのだろう。わたしの周囲に彼を含めていいのだと、彼の周囲にわたしが居てもいいのだと、認めてくれたようで、心が踊った。

わたしの言葉を受けて、彼は困ったように眉を下げた苦笑いを浮かべ、再び茶碗を手に取って言う。

「さて、貴様のことだ。どうせまた俺の予想など馬鹿馬鹿しく飛び越えた土産話のひとつやふたつ、用意しているのだろう?」

そう、この旅ではいろいろな、本当にいろいろなことがあった。もちろん、彼に聞かせたいことも数え切れないほどに。いったい何から話したものかな。

その時、暖炉で薪が小さくぱちりと爆ぜた。その音は今はもう、どこまでも優しい。

《了》